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「カンボジア クロマートラベルガイドブック」
Vol.2 Jan - Mar 2007

特集2 メコンの心臓
     〜トンレサップ湖・プレックトアール〜

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東アジア最大の淡水湖
トンレサップ湖

 熱帯モンスーン気候のインドシナ半島に雨季が来る。雨季が来ると、赤土剥き出しのままの道は文字通りの泥沼と化し、主要道路の多くが通行不能となり旅行会社を悩ませる。しかしそれが広大な水田農業としてこのインドシナ大地の礎をなしている。

 カンボジアでは5月〜10月に集中して雨が降る。乾季になるとさっぱり降らない。年間降水量は約1600mm、日本は1700mmと数値上さほど開きはないようだが、カンボジアの国土面積は日本のおよそ半分、その上、年間降水量が同程度と言っても、雨季である約半年の間に集中して雨が降る。感覚的には日本の4倍規模の雨が降っている状態であり、厳密には、もはやそれは雨でないもの、つまりスコールだ。

 インドシナ半島・メコンデルタ地帯は広大な平野である。雨季の膨大な雨水は一気にメコン川・サップ川、バサック川を下り南シナ海に向かうのだが、平地の表面で合流した濁流のうねりは行き場を失い氾濫し、半島中央のくぼみ、トンレサップ湖をめがけて逆流する。水流はどんどんトンレサップ湖に注ぎ込み、辺りを浸水させていく。乾季に3,000平方キロ・水深1〜2メートルにまで達する。


湖上の村
フローティングビレッジ

 この奇妙な自然現象がもたらす恵みは湖の周辺の人々の暮らしを豊かで一風変わったものにしている。彼らは湖畔または湖上に暮らしている。湖上に浮き家をうかべて、また湖畔に3〜6メートルの高さの柱を打ち込み、その上に板や丸太を渡した上に住居を構え、魚を捕って暮らしを営んでいる。家の縁にしゃがんで腕を伸ばし、濁った水をすくって顔を洗う。船に乗って漁に、買い物に、学校にと出かける。湖上の家々は程よい距離を保ちつつ集団生活をしている。

 アンコールの聖山プノンクロム麓のボート乗り場を出ると、湖畔の浅い部分には高床式住居が並ぶのがまず見える。小さな家々のあからさまな生活の様子が目に珍しく映る。他人の家を覗き見る後ろめたさを感じながらも、素朴な中にも仏壇の花や香を絶やさない尊い暮らしに内心興味津々。

 通行人にやたら手を振る子供の無邪気な仕草の可愛らしさ、傍らの小柄で筋肉質な父親は目が合えば屈託のない笑顔で応じてくれる。揺れる柱に寄りかかってお隣の奥さんのおしゃべりに興じるおかみさんの太く張りのある腰。日用雑貨を売る店がある、玄関先にずらり陳列された黄色いビンはガソリンスタンド。そして学校がある、警察がある、マーケット、寺はもちろん教会までもある。

湖畔の村人の生活に気をとられているうちに、次第に前方の民家はまばらになり、所々黄色い花畑が賑やかに咲き広がっているのに気をそそられる。先ほどまで岸辺に広がり揺れていた葦叢が背後の視界から消え、間近に迫っては遠ざかる木々の緑が濃くなっている。水が変わった。岸辺の生臭さが消えた。浸水林地帯の懐に入ったのだ。次々に圧倒的な光景が眼前に展開していく。水の表面はいつしか静まり返り、透明度を増している。若草色の浮き草があちこちに漂い、木々の頭が緑の小鳥のようにボコボコと出現する。ボートが進むに連れて辺りは森林と見まごうばかりの緑の光景が広がり、緑を切り裂き白い尾を引きながら進んでいる気で風に当たっていてふと視線を回すと、真っ青な空を映して水銀の如く輝く湖水が果てしなく延びて遥か地平線と溶け合っている。全く予想外に展開する景色に殆ど呆然自失の感で戸惑う。こんな不思議な光景は、間違いなくこの地上の他の何処でも出会えないだろう。ここは、そんな確信に駆られるような畏怖を感じさせる場所だ。

 海のような、森のような・・・これが湖だろうか。こんな途方もない場所があるのだなと幾度もため息をつかずにはいられない。



豊穣の湖
湖面を覆う緑の密林

 広大なトンレサップの漁獲量は淡水湖としては世界で1・2を争う多さで、年間5万トンの漁獲高を誇り、カンボジア国民の魚の消費量は平均100キロ前後で日本の2倍ということである。魚が廉価であるのと、漁獲量の多さがこの数字の理由である。

 雨季が始まると陸地近くで大量のプランクトンや昆虫が発生し、水嵩が増すに連れて、浸水林の根元を隠れ家に稚魚が一斉に成長、トンレサップ湖は世界一豊かな餌場を提供する。光の透過性の低い、しかし豊かに濁った水中に住んでいる魚は一般的にナマズ、雷魚、鯉を代表に大小さまざま500種類以上が確認されている。カンボジアの不遇な歴史に妨げられて継続的な環境調査によるデータ集積は行われていないが、この特殊な環境下には、魚類のみならず植物にもまだ確認されていないトンレサップ固有種が多いことは疑う余地がない。

 時折見える浮き家とその脇に構えた5〜8メートル四方程の仕掛け網、その横に低く浮かぶ寂しい木造の小船或いは筏の影、その中で引き上げた網を整備する漁夫とその家族。どの小船も凡そそのような様子で浮かんでいる。彼らは水位に合わせて浮き家を浮かべながら魚を捕って生計を立てている。
その昔、船べりを叩くと小魚が一斉に飛び跳ねて船に飛び込んでくると皆が口々に言っていたという豊饒のトンレサップ湖。それほどの豊かさを誇るトンレサップ湖の漁師の際活は、本当にこのように素朴で細々としたものであり得るのだろうか。

変わりゆく環境
人々の生活

 近くの子供に話しかけていた知人がぱっと振り向いて驚きの目で言う。 「この子、ベトナム語を喋る」 しかしなぜだろうか。
 確かにベトナムはカンボジアの隣国である。しかし、ここは国境ではないし、ベトナムから濁流の逆走に乗っかって来たとでも・・・無論そんな事ではない。実は、トンレサップ湖で水上生活を営む人の半数はベトナム難民だと言われている。ベトナムとカンボジアの不仲は周知の事実である。ではなぜベトナムからの難民がここに居つくことになるのだろうか。両国の政治的歴史的背景により、或いは戦禍、或いは迫害、生活苦を避け国外へ逃れるのが難民だが、この人々は難民ではなく違法労働者だというのが、どうやらカンボジア側の見解である。さりとて特に取締りの気配は見受けられない。不仲とはいえ地続きであり、風土や習慣に共通性と相互理解があるのだろうが、人は移住を決行した末にこのような淡々とした生活に落ち着けるのだろうか。確かに、水上生活では外部との交流に困難をきたす。もしかしたらそれが移民に精神的な安息を与えてくれるのかも知れない。

 そんなことを漠然と思い、この習慣文化、恐らくは経済圏の違いの甚だしさに不安になる。近年、その水上生活者が急増しているという。嗚呼世界はもうそこまで病んでいたのか、社会主義の影とは斯たるものか、としんみりする事はない。
 
 UNTAC撤退後のカンボジアの市場経済化と共に、現代的な漁業方法の利便性を生かしてこの天然漁場の恩恵に与ろうと商業漁業が盛んになり、人が増えたのである。また、生け簀養殖法、加えて豊かな周辺の自然を資源にした林業や宝石の採掘などの商業活動、漁場の獲得争い、観光客を相手にした商売なども水上生活を活性化している。ただし、それらの営利至上活動やグローバリゼーションの波及がこの地の自然生態系や素朴な地元民を変え、貧富の差の拡大化に拍車をかけている現実は否めない。

 素朴で時代遅れな湖畔の風景、真っ青な空を映す鏡のような湖面の凛々しさ、独特な光を放つ深い湖水とそれを覆う厚い木々の絨毯が造る摩訶不思議な湖の構造、光を跳ね返す湖水の下に広がる不透明な世界に棲む魚族の知られざる形態と生態・・・。この桁違いな大きさを誇る水溜りが生み出す感動と謎は尽きることがない。




プレックトアール
バードサンクチュアリ
湖を覆う緑の密林

 その昔、この湖面には白いイルカが跳ね、村々では大ナマズ目撃の噂が絶えず、巨大なワニの横行に勇ましく太鼓を打ち鳴らしながら湖畔を往来したという―。
 
 そんな、おじいちゃんの時代の楽しく心踊るような野性的な光景は今は絶えた。湖の下に広がる魚族の世界は光線を反射し輝く湖面に阻まれ容易には覗い得ない。
しかし、落胆するには及ばないのである。水上に水鳥の世界がある。それも実に賑やかな世界が。

 アンコール聖山プノンクロムの麓からモーターボートで約1時間も進むと、先端に旗を掲げた棒が幾本も現れ、その先に巨大な漁場が広がっているのが見えてくる。人々の日常生活圏外に出ると、湖の大きさは増しそれに連れて空の青さも増し、その景色を横切る鳥の姿が目立ってくる。空中の遥か彼方に隊列を描いて飛んでゆく鳥の姿や、真ッ逆さまに水をめがけて突進した次の瞬間には水面を蹴って飛び去る鳥の姿、そして、何をしているのか知らないが、時折水音を立てて飛び上がり銀色の腹を光らせる魚に驚かされる。よく見ると水面下至る所に小魚の群れが見える。

 見渡す限りの湖の上を更に進むとその先にうっすらと陸らしき影の広がっていくのが見えてくる。目指す村に近づいたのだ。ブレックトアール村は水上の村である。そこにある野鳥保護区の管理事務所も水の上に浮いている。事務所には宿泊施設が併設されており、観測員だけでなく観光客も宿泊することが出来る。噂ではここの食事はかなり美味しいということである。勿論魚料理であり鳥料理ではないことは言うまでもまないが。名簿にサインをし規定の料金を払い、管理事務所のボートに乗り換える。遊覧船や観光ボートはここで止められる規則である。この先にはバードサンクチュアリ・野鳥保護指定区域の森が広がっている。12月から2月までのワンシーズン中に、この湖上に広がる森には多くの渡り鳥が飛来し、ゆたかな餌場と快適な巣の約束された湖上のマングローブ林で繁殖期を過ごす。現在、ここは地上で最大級の希少種が繁殖棲息できる唯一の場所となっている。1997年ユネスコはトンレサップ湖とその周辺を「生物圏保全区域」と宣言し、保護プロジェクトが開始された。渡り鳥の繁殖地となる中心部、コアエリア、コアに直接影響する周辺エリアバッファーゾーン及び、野鳥の移動域、と対象区域を3区分し、継続的な観測と環境管理が行われている。鳥類も魚類同様に世界中で大型種の個体数が減少の一途を辿っている。ペリカンやコウノトリのような怪鳥レベルの野鳥の繁殖場所は今やこのトンレサップ湖のみとなり、特にハイイロペリカンとオオハゲコウという種の存続が注目されているという。大〜中型では他に、トキ、タカ、ワシ、ウなどの水性渡り鳥の希少種が繁殖に訪れるということである。

 ボートがバードサンクチュアリに入るとすぐ、エンジン音に驚いて緑の木々から白いトキが一斉に舞い上がる。頭上の遥か高くに見える黒い鳥(トキもしくはコウノトリ)は広げた翼を羽ばたかせず、静かな水に浮かぶ木の葉のように殆ど静止しているように見える。前方からまた白い鳥が飛び立つ。その姿を目で追うと、一瞬見せた背中に赤黒い模様がある。また、他にも、翼の先だけが黒っぽいもの、翼だけが黒っぽいものなど、気がつくと種類の多さに動揺するほどである。ある種の鳥たちはただいたずらに頭上を飛んでおり、遊んでいるとしか見えない。恐らく若い鳥たちが飛び方を学んでいるのだろう。しかし耳を澄ますと啼き声とも呻き声とも聞こえるような不気味なヒナ達の啼き声の渦が辺りを取り巻いている。

 望遠カメラから目を外すと、この大鳥の群れはもはや視界のどこにもいないかとおもわれる程の小ささだ。ペリカンという鳥は温厚で臆病だそうでドライバーは何度頼んでも容易に近づこうとはしてくれない。子育てを邪魔することはならぬとの配慮であろう。しかしそのドライバーさん言わく、ペリカンの卵は特に美味。即座に同調し即座に頷く周囲。昔はよく卵を獲りに出かけたものだという。パチンコで親鳥を脅かしておいて、その隙に手で簡単に卵を集められるのだと言う。また、木を揺らして巣から卵を落とし、下の水中で待つ仲間が沈んでいく卵を手のひらでキャッチして獲るのだという。現在、この地域は地元民に食の喜びをもたらす地から、世界中の人が見つめる特殊環境地帯へと移行した。不意に「山は概ね山を愛する人に属す」というある唐の時代の詩人のことばが聞こえてくる。鳥たちは現在、自然環境を愛する者に、いや、地球を見守る人々に属するのだろう。大自然を目の前にすると現代の現実がひしひしと我々に迫って来る。
・ 渡り鳥の代表とも言えるペリカンの中でも、ハイイロペリカンは比較的小型と言われるが、体長130〜150cmと人並みの大きさで翼を開いた長さは3メートル以上にもなる。この翼で巧みに風を促えて悠々と大空を旅する。袋状になった大きなピンクのまだら模様の
・ 下嘴がなによりの身体的特徴である。体は銀白色だが全体的にほんのり黄桃色の印象がある。つむじのあたりがケバ立っていて、それが逆に顔全体のシルエットをシャープに引っ張っている。この鳥は飛行も名人だが泳ぎもまた大得意である。細長い足の先は大きな水掻きになっていて、澄ました顔で水面をまた水面下を自在に動き回り大きな下あごで魚を水ごとすくって食べる。この時ペリカンの嘴は伸び広がってかなり大きく見える。単体では行動せず数羽でグループをつくり集団生活をする。大きな顔をした大鳥が木の上で群れている光景はなんとも興味深い。繁殖時は餌の多い淡水湖に宿り、木の上に草や枝で巣を作って2〜3個の卵を産む。嘴の下の袋を膨らました親鳥が口をパカッと開けると、食欲旺盛なヒナが一斉に頭を中に突っ込む。

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